航海記録


|台湾から石垣島へ 黒潮横断 2006年|

台湾島は左に中国大陸、フィリピンと日本の間にあり、台湾海峡、太平洋、東シナ海、バシー海峡に囲まれている。
台湾かわほど近い海の深度は4000mにも達し、島の最高峰、玉山の高度は3952mにもなる。

台湾と与那国島の間には黒潮源流が流れ、今回の遠征の一番の難所でもある。

石垣島からフェリーで台北入り後、台湾のカヤック協会の方々と海へ出ながら花蓮まで移動。
そこから日本にも馴染みの深い、黒潮を横断し、与那国島を目指します。

(艇はウォーターフィールド社のマリオンを使用)

外部リンク


Great Seaman Project 台湾 2006

これは、2006年6月に行った、台湾シーカヤック遠征、黒潮横断のレポートである

はじめに

日本から、人力で海を渡れる隣国は、どれだけあるだろう。
北海道からロシア、九州から韓国、そして沖縄から台湾。

今回の舞台は、その台湾から石垣島。
この海を単独無伴走で横断する計画である。
島の間には、日本人に馴染みの深い、黒潮が流れている。
海が、時速6kmで絶えず動いているらしい。
人力で乗り越えられるものなのか?

僕が石垣島へ移住していることも手伝って、決定はすぐだった。
文化的にも経済的にも、沖縄と深い関わりを持っている台湾。
しかし、台湾の人や習慣、海のことは、ほとんど知らなかった。
面白そうだ、やってみよう。

今年、2月の事である。

黒潮横断とは?
台湾から与那国島まで、最短距離を結べば110km。
今回の出発地、花蓮港から与那国島まで、直線距離で143km。
最短距離を狙って与那国島を目指すのは、人力のカヤックでは難しい。
黒潮が北へ流れているからである。
距離が長くなっても、与那国島より南側から出た方が良いだろう。
その地が、花蓮港だった。
143kmの間、人間が上陸できる場所や人口物はない。
さらにこの距離の間には黒瀬川と呼ばれる黒潮が北へ北へと休むことなく流れている。

オーストラリアから日本までの海域を旅するグレートシーマンプロジェクト。
このプロジェクトの他の海域と比較して、この台湾~与那国はどういう海なのか。

2003年のインドネシア、パプア州南岸の遠征は、情報がほとんどなく、
全てが泥海、そして熱帯性の病気、ワニなどの危険動物、
水の補給地、食べ物の補給も、道路などのインフラもない海。
人力で入域した外国人がいないという、カヤッキング、
サバイバル術、トータルの自分が試される一番難しい海域だった。

2005年の西表島~沖縄本島の遠征では、
オーストラリアから日本までの海域を島々で結んだ場合の最長距離220kmがあった。
距離が長い分、漕いでいる時間も56時間20分と最長になった。
技術はあまりいらないが、自分の根性が試される、我慢比べの海域だった。

今年は、流れの速い海が長距離続く。

カヤッキングという面だけを考えれば、最難関の海と言えるかもしれない。
カヤックを漕ぐスピード、ナビゲーション、タンカーの通る海、夜間航行、
これが大海流、黒潮の中で行われる。
単独無伴走で渡った者がいない為、精神的、肉体的にも試されることになる。
成功すれば、カヤックの新たな可能性を証明できる海だ。

黒潮、日本に馴染みのある海流は、北赤道海流を源流にしている。
赤道付近を西に流れる海は、フィリピンの東を北上し、
台湾と与那国島の間を抜けて行くのである。
のちに、奄美大島と屋久島の間に点在するトカラ列島付近で、
東に流れを変え、本州の南を北上する。

2004年。
沖縄から九州へ北上した時に この黒潮のぶつかるトカラ列島を縦断している。
黒い潮の名の通り、透明度の高い、濃群青の海がそこにあった。
潜ってみれば、底なしの青い世界。
プランクトンが少なく、透明度が高いため、海は青く、
そして深度がある為、青黒くなるらしい。
確かに海の色が違った。

2ノットから4ノットで流れる海を渡った経験は、今回の役に立つだろうと考えていた。
黒潮に入った時に、海面はどのように波立つのか。
自分のカヤックのスピードを、どの角度で進めていくのか。
黒潮に入ってからの、自分なりのGPSの使い方。
天気が荒れた時、どのように海が変化するのか。

勿論、予想外のことは常に起こりうるが、それはいつもの事。
経験は、役に立たない事がある、というが、応用は利くものだ。


台湾から与那国島へ渡るには、
黒潮の流れとは違う方向、東に東に進まなければいけない。
では人力のシーカヤックで、どうのように高速の海流を越えていけばよいのか?
これが今回の最大のポイントである。

海図では、1.6~3.8ノットで、北北東へ流れていることになっている。
流れの本流は、どこにあるのか?
北北東の流れでない場所はないのか?
細かい事はわからない。

地図上、北緯24度と北緯25度の中間には、海の違いが見て取れる。
(花蓮と与那国を結んだ直線の中間地点)
海底の深さ2000m~1500mだった海が、深度700mまで上昇する。
どういうことが起きるのだろか。
高低差1,000m以上。
深度2000mを流れていた黒潮が、深度700mまで海底の坂を駆け上がる。
海の容量が不足し、当然、海は上に盛り上がろうとする。
海という器が足りなくて、外に水が溢れ出すような状態。
それでも、余ってしまう海水は、
スピードを上げることで坂を越えていくようになるだろう。
広く深い場所をゆっくり流れる川が、
狭い水路に入った途端、流れが速くなるのと同じ原理。

途中、黒潮の真ん中に、深度1500mから深度143mになる場所もある。
仮に、水深15mの海岸沿いに浅瀬や大岩があり、
急激に水深1.4mになれば、ブーマー(砕け波)が起きる。
カヤックにとっては、危険がある波だ。
これが、外洋の大海流の中で起きれば、どうなるのか。
ここは避けたいと思う。

この幅140㎞にも及ぶ巨大な流れに、いろいろな変化がありそうだ。
黒潮の流れは、一様ではない。

では、どのように対応するのか。
僕は、以下のような予測をしていた。

140キロの黒潮の北に流れるスピードを平均2ノット強(時速4㎞ほど)とする。
花蓮と与那国島の緯度の差は、30分、つまり約54㎞。
黒潮に乗って、20時間、海に居れば80㎞北に流される計算になる。
真東に20時間漕いでも、80㎞、北上することになる。
漕ごうが、漕ぐまいが、流れる。

20時間以内で与那国到達可能であれば、ただ真東に漕げば良い。
ただ、人力のシングルカヤックの場合、それは不可能に近い。
20時間では、漕ぎきれない。
どこかで、南下する必要が出てくる。

そうならない為に、カヤックは、東より少し南(120度から150度)を向いて
航行することになるだろう。
北に流されないことだけ考えて南を向いて漕いでいれば、
今度は東へ進む距離が伸びず、ひたすら航行時間だけが伸びていくことになる。
人力で連続して漕ぎ続けられる時間は、そう長くない。

今回のタイムリミットは36時間とした。
朝、出発して、夜を向かえ、朝が来る。そしてのその日の、日が暮れるまで。
それ以上、眠らずに、北に流されるのを耐えながら、
漕ぎ続けるのは、今の力量では難しい。
36時間のうちに与那国島に着かなければ、
緊急のチャーター船の要請を出すことにした。

黒潮の北への流れは、与那国島でぶつかり、
その裏には反流、停流があると予測できる。
もし、北へ流されたら、この流れを探すことになる。
探しきれなければ、どうなるのか。
反流すら捉えることが出来なければ、尖閣諸島に流されていく。
今回は、北緯24度42分より北に流された場合、遠征失敗とした。
与那国の北、20㎞超。

北に流れないように気をつかいつつ、東に140㎞移動する。
そして、ピンポイントで与那国島に到達する。

これが、今回の黒潮横断の内容だ。

6月26日 花蓮港いざ出発

台湾時間、朝6時、花蓮港にいる。
シーカヤックで与那国島を目指す為に、ここで出国手続きを終わらせた。

天気は晴れ、南風7メートル、波1.5mの予報。
今、風はそれほど吹いていない。
港にある台湾の国旗が、揺れる程度。
午後になって気温があがると吹いてくる筈だ。

梅雨明けした沖縄、台湾は、毎日同じような天気である。
気温は、33度、例年より高温の日が続いていた。
台風が未だに1号までしか発生していないことが心配である。
水温の上がった海で生まれる台風は、巨大になる。
与那国に着くまでは、大人しくしていて欲しい。

この日の出発を、どうするのか、前日まで迷っていた。

連日、ほとんど変わらない気圧配置。
やや強い南風の予報。
ただでさえ、黒潮の影響で北に流されるというのに、南風は厳しい。
停滞しても、風の収まる兆しはない。
待てば待つほど、台風が発生する可能性が高くなる。
撤退か、出発か・・・どちらかしかないな。

風は不利。
天気が崩れないのは間違いない。
これを天秤に掛けてみる。
予定より、北に流されるだろうが、天気の急変がない分、
遭難する可能性は、限りなく少ない。
休まず漕ぎ続けることが出来れば、行ける。

黒潮+風速7なら、ぎりぎりの選択だが、乗り越えられる。

決断出来たのは、昨年の経験が大きかったかもしれない。
宮古から久米島、単独横断220km。
横断の途中、船酔いで食事も出来ず、
胃液を吐いて、よれよれになりながら、残り140kmを漕ぎ抜けたこと。
シーカヤックによる56時間の航海は、体に残っている。

体力的に落ちても、人は何とか出来るものだ。
山の挑戦に比べれば、全然、大した事じゃない。

花蓮港。
出発を見に来てくれた人に手を振る。
気恥ずかしいので、そそと出発してしまった。
普段、見送りなどないから。
「本当に日本まで行けるのか?」
半信半疑の気持ちで見送る人々。
昨日は、港の職員が
「カヤックで日本に帰るなんて、つまらない嘘を言うな」と言っていた。
本気なんです、と言ったところでどうしようもないな、と思った。

出発した漁港のスロープから、港の入り口まで2㎞もある。
何故、それほど奥に漁港があるのか?
頑丈な堤防が長く伸びているのには、訳がある。

台風が接近してくれば、まず台湾で一番初めに影響を受ける東海岸線。
港を出た途端、流れをともなった深い海がある。
陸地に向かって急激に浅くなるということは、
大きな水の塊が海底に沿って急上昇しパワーを増幅させ港にぶつかることになる。
漁船が一番奥に留めてあるのは、そういう意味かと思う。
しかし、港を出るまでに2㎞は長い。
人力にとっては、さらに長く感じる。
まずは、ゆっくり、パドリングを確かめるように漕いだ。

26日 離岸そして鼻歌

朝7時。
GPSは、与那国までの直線距離を143㎞としていた。
おし、いよいよ始まる、少し気分が高揚している。

昨夜は、寝付けなかった。
気負いはないつもりだが、寝ようとすると心臓の音が聞こえたりする。
そして、寝られない。
頭でシュミレーションしてみたり、また起きて道具のチェックをしたり、結局12時就寝。
そして、朝4時半に起床。
昨年の船酔いの経験は睡眠不足と判断したのだが、
その経験は生きなかったことになる。
いや早く寝ようとしたのだけど、寝付けなかったのだ。
気合の入り具合は、その人の性分だから仕様がないが、
もう少し、気楽にしていた方が体は楽だと思った。

港を出れば、2隻のタンカーが沖を走っていた。
港湾局の人に聞くところいによると、
多くのタンカーは、沿岸といえるようなコースをとるらしい。
夜間の航行時にタンカーの道を越えていくのは、気持ちの良いものではない。
昼の間に、越えてしまおう。
出発して1時間。
タンカーに接近することもなく、無事やり過ごした。
風は、そよそよ。
北への流れは、3kmほどであった。
沖に出れば、すぐに黒潮の流れがあるのだなぁ。

後ろを見れば、山脈を背中にしょった花蓮の街並がすぐ近くに見えていた。
山の稜線がはっきりしていて、緑がぎっしりつまっている。
南国特有の山肌。
ところどころ、岩が露出しているが、それがアクセントになって良い。
これがゴールだったら、感動的な景色だ。

明日には、与那国島についているだろう。
海況が、このままだったら、余裕を持って与那国に着けるのだけどな。

気楽だ。
暇なときは、歌を歌おう。

島歌
ガンダーラ
異邦人
青春の影
涙そうそう

普段より、1オクターブ低く歌ってみたり、高く歌ってみたり。
裏声の調子を確認する。
やっぱり自分の声は、低音が響く、なのに低い音の歌は少ないんだよなぁ。
なんでだろうか。

前方に、静かな海があるだけの状況で考える事など、大した事ではない。

26日 朝10時
- 台湾大陸に架かる雲 -

北緯24度00分55秒 東経121度50分26秒

少し南南西の風が出てきた。
その影響もあってか、船は北北東へ時速4㎞で流れている。
海は、うねり始めていた。
予定していたラインの南を通っている。
良いコースだ。

僕は、普段、GPSは切った状態にしている。
本当に、使いたい時の為のバッテリー節約という理由がひとつ。
もう一つは、GPSに頼りすぎると、
GPSが無い時、また見られない時に、不安が広がるからである。
不安は冷静な判断を狂わす、一番の条件だと思う。
今回も、1時間に一回程度、確認するという方法をとって進んでいた。

後ろを振り向くと、花蓮の街は、小さくなり、山脈には大きな雲がかかっている。
山頂は見えない。
夕方には、激しい雨が降りそうだな、と思った。
のちに分かることだが、僕が出発した後、
台湾と中国大陸の間に、小さな台風2号が発生していたらしい。
その湿った南風が、台湾の山脈にぶつかっていたのだろう。

この後、強い南風に繋がっていく…この時は、まだ知らない。

与那国島まで、あと121㎞。

26日 13時
- 大海流黒潮に触れる -

北緯24度05分50秒 122度02分17秒

風が出てきた。
白波があちこちで見え始めている。
波頭に乗れば、カヤックが振られ、デッキの上を海水が被ってくることもあった。
GPSは、漕いでいないのに、時速6㎞で北に移動していると表示。
既に黒潮本流に入ったようだ。
本流へ入るまでの海の境目がなかったように思う。
海全体が動いている為、実感はない。
トカラ列島とは大分違うぞ。
少しえたいが知れない。

地球は常に自転しているが、自分が動いている実感をもてないのと同じだろうか。

GPSが、黒潮、真っ只中であることを示しているだけだ。
昔の人は、どうやって黒潮を横断していたのだろうか。
そんなことを思いながら、漕いでいた。

サメのヒレが見えた。
まずいなぁ。
サメが怖いからではない。
それはよくある事だ。
サメが居れば、まずパドルで海面を漕ぐことが出来ない。
音で、相手を刺激してしまうからだ。
止まっている間に、どんどん北に、カヤックが流れていってしまう・・・
ヒレが、カヤックに近づいてきた。
「イルカだ」
一安心。
こんな黒潮の中に、1匹でイルカが泳いでいるのか。
パドルを漕ぎ始めると、ゆっくり海の中に入っていった。

この頃から、自分の航行するスピード、向かうべき方向をシビアに考え始める。
黒潮の感触、体感を掴もうとしいる。
海に違った様子はないか、うねり、波、風。
群青の海が、うねっているだけだ。

体に不調は起きていない。
手が、マメにならないよう、持ち方をこまめに変えてみる。
昨年は、手のひらが酷く痛んだから注意した。

出来るだけ体に負担をかけず、
長時間、スピードを維持しながら動き続けられるように漕ぐ。
これから始まる厳しいパドリングを予想してのことである。
さぁ、ここからだな。

与那国島まで99㎞

26日 16時
- 信じたくない現実 -

北緯24度11分16秒 東経122度14分11秒

風は、いつしか南風になっていた。
7~8メートルの風。
白波とうねりの中の、パドリング中の定期連絡が、難しい。
パドリングをやめると、風の影響でカヤックはうねりに大して横を向く。
そこで大きい波をかぶれば転がってしまう。

今は、まだ明るいからよいが、夜間にパドルを離すことは、危ないだろうな。
定期連絡が出来ないこともあるだろう。
その旨を、事務局へ伝える。
夜、パドルを離した状態で転覆すれば、ロールも出来ずに(パドルを使って起き上がること)
沈脱(カヤックから体が離れてしまうこと)する可能性もある。
何か、大事な物が流出しても見つけられない。
夜間、パドルを離しての沈だけは、なんとしても避けなくては。

今、こうして事務局と連絡をとっている間にも
800メートルも北に流れている事実は、見なかったことにしたい、と思った。
流れ過ぎている・・・
自分が理想としていたルートより北に流れ始める。
当初120度の方向で漕いでいたが、今は150度を向いてけた。
GPSは、漕がずにいる時で、時速8キロをさしていた。
既に周囲は海だけになっている為、流れている気がしない。

室内トレーニングのジョギングマシーンを思い出す。
設定は、時速8㎞、止まるのは36時間後。
その間、休めば、機械から落とされる。

ただ、僕の場合は機械から落ちるのでなく、漂流を意味する。

風に流されず、且つスピードを保てるように、体を大きく捻り込みながら、漕ぎ始める。
ゆっくり、大きく、正確に。
前方の水を軽くキャッチして早い回転するというのではなく、
パドリングの回数を減らしていく。

与那国島まで76.6km

26日 19時
- 真剣勝負 黒潮 -

北緯24度19分50秒 東経122度26分35秒

空はまだ明るい。
海図によれば、N24度18分 E122度30分 付近に、浅瀬がある。
海底深度、1500mから143mまで、上昇する。
海の中に、1400mの山があると言っていい。
この山に、海の大海流がぶつかれば、どうなるのか。
細かい事は、行ってみないとわからないが、酷い事になっている事は想像できる。
ここだけは、避けたい。
特に南側を危険だ。
北へ向かう海流が山にぶつかり、南側は強烈に不規則な変化が起きているだろう。
良い子は、近づかない方が良い。
出来れば明るいうちに避けたいと思っていた。

今の自分のポジションは、まずまずだ。
第2案のルートをしっかり掴んでいる。

最高のコースは、この浅瀬の南側を通ってかわすこと。
第2案は、この浅瀬の北3㎞をかわすルート。

北北東へ時速8kmと速度をあげた海で、北に流れるのはどうしようもなかった。
気にせず漕げば、浅瀬に直撃するコースだった。
船の向きを東に変えて、北を回るように修正する。

今、北に10m流されても、その10mは、取り返しがきかない。
この風と海流の中では、南には1mすら下れないからである。
花蓮~与那国間の緯度の差54kmが北に縮まることはあっても、南に広がることない。
この54kmを使いきり、与那国より北に流されれば、戻れなくなることを意味していた。
しかし、この北ルートの選択は、間違っていなかった。

前半戦、南へいけるときに少しでも稼いでおくべきだったなぁ。
これは、後悔ではなかった。
ただ分析していたように思う。
次回は気をつけよう、という感じ。

これからの、ルートをどうしようか。
ここから先は海底が今までより浅くなり、黒潮がさらに速度を上げることが考えられる。
もう与那国島を直接、最短距離で狙うのは難しいだろう。
反流を探すことになるな。
不眠不休のパドリングを覚悟する。

出来るだけ東へ向かいつつ、尚且つ、北に流されるのを最小限に抑える。
最善のコースを考える。
既に12時間、漕いでいるが、ゆっくり漕いだり、休んだりすることは、許されない。
休めば、そのまま失敗、漂流を意味するんだな。
昨年のように、酔ってしまうことなど、全く論外の話だ。
おし、やってやる。
ここから気合が入った。

この頃から、自分のカヤッキング以外の事を、考えていた記憶がない。
カヤックスピード、方向、星や雲の位置、波の様子、周囲の船、自分の体の具合。
大変な状況では、自ずと集中するものらしい。

指のマメに水泡が出来始め、さらに、腰が服とすれて、皮がむけ始める。
これは、いつものことだ。
我慢すれば、良い。
痛いけれど、今回は、あまり気にならなかった。

与那国島まであと51km

26日 21時40分
- パドリングハイ -

北緯24度23分 東経 122度32分

流れがきつい。
風は、相変わらず7メートルは吹いている。
漕いでいて、耳を抜ける風がビュービューと音を立てていたから間違いない。
南、角度にして180度の方向へ漕いでも、北北東へ流れていく。

朝まで持ちこたえて、少しづつ東にスライドしていこうか・・・
北に流れても良いから、東への距離を稼ぐのか・・・

この判断が難しい。

体力はまだ残っているが、45度で(北東)に流れている現状は、良くない。
真南を向いてでも、北に流されるのを抑えよう。
仮に、朝まであまり近づけなくても良い。
一歩でも近づいていれば、ラッキーだと思おう。

今は、南の星を見て漕ぐことを第一に選択する。
昼なら、コンパスも自在に使えるから、方向がとりやすい。
明るくなったら、いっきに勝負をつけてやる。

定期連絡では、この状況での夜間連絡は、きついと伝えた。
波やうねりは勿論だが、電話を握って連絡をとっている間に流された距離を、
取り戻す事が出来ない状況だからだ。
たった800m、北に流されただけで、与那国島へ到達できない可能性がある。

こうした海は、どこにでもあるわけではない。
本気でぶつかれるのが良いと思った。
自分が、この海に飲み込まれる気はしなかった。
乗り切る。
夜になって、海は寒いくらいだったが、気持ちは高ぶっていた。
パドリングハイ。
マラソン選手が、苦しい筈の時間に、気持ちよくなってしまう現象が、
あの時、起きていたようだ。
ともかく大変な状況なのに、失敗する気がしなかった。

もうそろそろ、灯台の明かりが見えてくるだろう。

与那国島まで40km

27日 1時
- 視野に入れてはいけない光 -

北緯24度27分 東経122度39分

「夜が明けるまで連絡しないぞ」
わずかな定期連絡。
まともに連絡をすれば、数百mも北に流れる。
1分、10mでも惜しい状況。
さらには、夜、風が上がって、とてもパドルを離して電話を出来る状況ではなかった。
それでも一言だけ叫んで、またパドリングに集中した。
途中、何度か眠気が襲ってきたが、白波をかぶると目が覚めた。
腰擦れが、痛み始める。
少し尻の位置をずらして、対応する。

昨年は、腰の横が擦れて、擦れ続けて、えぐれた。
いまでは、その傷跡が、盛り上がっている。
そことは違う場所。
尻の上の部分である。
昨年と同じ所を擦らないように、シートを替えたが、フィットしていなかった。
シートの後ろを、もう少し切り落としておけば良かった。

GPSを、ときおり確認する。
南を向いて漕いで、自分はどれだけ北に流されているのか。
もっとスピードをあげて漕ぐ必要があるのか、の確認だ。
GPSの航跡が、45度(北東)に線を引いてない事を願っていた。
もう時計を見る必要はない。
ひたすら夜明けまで、漕げば良い。
これは、とても気楽なことだと思った。
海と自分に集中できる。

灯台の明かりが見えてきた。
残り35㎞地点。
自分のカヤックの向きは、南を向いている。
目的地の灯台の光は、左手、東方向に見える。
これが何時間も続く。
シーカヤックでも、こんなフェリーグライドあるのだ。
光を見れば、どうしてもそっちに向いてしまいがちになる。
ゴールを向いて漕いだらどうなるか?
そのまま、北に流されて漂流だ。
灯台は見ないで、ただ南の星を目指して漕ごう。
ただ島の存在を確認して、気持ちは楽になった。

前半戦は、予定以上のスピードで進めることが出来た。
そのままいけば、20時間を切れるかもしれないと、希望的観測もあったが
今、こうして北に流れるのを最小限に漕いでいるということは、
あまり東に進めないということ。
30時間勝負になるだろう。
昨年も、前半戦が調子よく、このままいけば楽勝!?と思っていたが、
その後、船酔い地獄が待っていた。
やっぱり後半戦は、きついものになるんだな、きっとそういうものなのだ。

与那国島まで 27km

27日 4時
- 最後の踏ん張り -

北緯24度34分 東経122度50分

東の空がわずかに濃紺から青くなってきた。
もうすぐ夜が明ける。
暁刻は、いつも美しい。
自分の名前が暁で良かったと思う。

灯台の光は、次第に前方に見えるようになっていた。
島より北へ流された事を意味している。
それでもカヤックは、相変わらず、北へ少しずつ流されている。

海面は、相変わらず白波が立ち、風は9メートルくらい吹いていた。
出発してから、一番酷い海況。
朝凪は、どこへ行ってしまったのか。

島の裏に入れば、必ず、潮が弱くなる筈だ。
ともかく、東経122度56分を越えよう。
焦りはないが、肩周りの筋肉が疲労してきた。
しかし、疲れたからといって、ここでパドリングをやめるわけにはいかない。
ここまで漕いできて、最後に自分の弱さで失敗したくない。
しっかり水を掴んで、腰で漕ぐことを意識しする。

疲れてくると、どうしても漕ぎが小さくなり、
腰がまわらず、腕に頼りがちになりスピードが落ちてくる。
今の状況は、死に直面しているわけでも、
呼吸が出来なくなったり、体が動かなくなっているわけではない。
意識すれば、しっかり強いパドリングが出来ている。
それは、まだまだ余裕があるということだ。
船酔いもしていない。
北に流されているのだが、いける、と思った。
もう目の前だ。

与那国島まで 12km

27日 7時
- 与那国島を掴まえる -

北緯24度33分 東経122度54分

もう大丈夫だな。
ようやくパドリングから開放されるぞ。
もう島影が、朝日に照らされている。

今までは、南にカヤックを向けて漕いでも、北北東、北東へ流されていた。
今は、北に流されるのでなく、東に移動している。
黒潮の北への流れが、北東の流れに変わり、海流の強さも少し弱まったのだろう。
全力で漕げば、わずかに航跡が南に向いてきた。
角度にして、95度。
西南西より、まだ東向きだが、それでも良かった。
もう少し進めば、さらに流れは弱くなるだろう。
本流を抜け、傍流に入ったのだ。
尻尾を掴まえた。

定期連絡
「今、与那国の北にいる。大丈夫だからな。まだ手を離せば北に流れるから、切るぞ」
GPSを見れば、北東へ時速6kmで流れている。

ここまで24時間、定期連絡以外は、ほとんど漕ぎ続けていた。
手のひらは、水泡が出来て膨らんでいる。
尻の皮は見えないが、剥けているのは間違いなさそうだ。
気持ちに余裕が出来ると、途端にあちこちに疲労と、痛みを感じはじめる。

ゆっくり漕いでも、東へ流れる程度になった。
おし、これでどうにでもなる。
やったぞ。

台湾から日本へ、このわずか140km程の移動で、
人も習慣も文化も生活も何もかも違うのが不思議に思える。
花連の街は、道路が広く、風が吹いていた。
海からの眺めは、大山脈を背後にしょって、雲をかぶっていた。
人は、親切で、美味しい餅を食べたよな。

あぁ、しかし黒潮は大変だった。
もう少し北に流されていれば、失敗していただろうか。
与那国の北、どのあたりまで強い流れを保っているのか知りたかったな、と思う。

今回、船酔いはしなかった。
昨年、シーカヤックで始めての船酔いをする。
真っ暗な夜の海で風が吹いたときに、海面の波を見すぎたのが原因だった。
今年は昨年より風が吹いていたし、うねりもあったけれど、できるだけ星を見ていた。
それが、良かったのだろう。
酔えばパドリングに力が入らず、即、黒潮に流されていた筈だ。
昨年の経験は、しっかり生きた。

余裕が出来ると、いろいろ考える時間が増える。
漕いでいる時は、この海をどう乗り越えるか?しか考えていなかった。

カヤックが、時速2キロで南東に進み始めた頃、飛行機が、低空で飛んできた。
あ、偵察?撮影かな?
昨年、海上保安庁のファルコンジェットが、
宮古~久米島間の航行中、空撮をしてくれたのを思い出す。
1周、2周と僕の周りを旋回した後
戻っていくのかと思っていたが、何周しても戻る気配がない。
おかしいな、どこかで何か、事故でもあったのだろうか?

朝8時過ぎ、海上保安庁の巡視艇が、後ろからカヤックに接近してきた。
「八幡さんですか?」
「はい、八幡です」
「事務局から、救難要請が出ているのですが、大丈夫ですか?」
はじめ何のことか、わからなかった。
何?
「朝4時の定期連絡が無いので、捜索の要請がでました」
「朝4時は、海が荒れていて、連絡出来る状態ではなかったんですけど」
「ともかく、今は大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「このまま、船に引き上げますか?」
「いや、ともかく港へ漕いでいきます」

このやりとりの間にも、北に流れているのがもどかしかった。
明け方程ではないけれど、ところどころで白波がたっている。
風は、やや強い6~7mといったところだ。
その中を、ゆっくり確実に漕ぐ。
しかし、何でだ!?よく理解できなかった。
巡視艇は、真後ろで監視している。
すると、島の西から、もう一隻の船がこちらに向かってきた。
遠征断念の際に、要請をお願いしていた、新嵩喜八郎さんの船だった。

なんとも言えない、申し訳ない気持ちになる。
捜索されることが始めてだったから、どうしたら良いかわからなかった。
ともかく港へ入ろう。

巡視艇は、新嵩喜八郎さんの船の到着と入れ替わりで、帰っていった。
着かず離れずで、港まで一緒に付いてくれていた。
「最後まで、頑張ってください」
船長の励ましの声を聞いて、ありがたいことだ、と思った。
時速2.3kmのスピードで南へ進む。
与那国島の街や道路がはっきり見えてくる。
ゆっくりだが、確実に近づいているんだ。

与那国島まで 6km

27日 午前10時40分
- 傷跡 -

無事、祖内港へ入港。

27時間40分の航行であった。
シビアな状況の中、定期連絡以外は、ほとんど漕いでいた。
ナビゲーションを間違えれば、簡単に失敗する難しい状況だった。
良い挑戦だったと思う。
カヤックは、凄い道具だ。

港では、喜八郎さんの奥様がおにぎりを作ってくれていた。
本当、ありがたい事だと思いながら、少し呆然としている。

何からして良いのか。
何をすれば良いのか。

足がふらふらしている。
ずっと座っていたからだ。
足先が、しびれて感覚が無い。
昨年も同じだったな。

右肩に力が入らず、肩より上に腕を上げられない。
無理に上げれば、痛みが走る。
といっても、これは少し休めば直るものだ。

手のひらは、昨年、56時間漕いだときより、酷くなかった。
水泡が、いつもと違う指にできていた。
パドルの握り方を変えたりしていたからだろう。

腰、尻の服擦れは、赤く血が滲んでいる。
海水がしみるが、たいした問題ではない。

まだまだカヤックの限界ではない、と思った。

諸手続きが終り、ようやく落ち着いた頃、無念な気持ちがこみ上げてくる。
なんで捜索することになったのか。
事務局へ確認の連絡をする。

午前1時の連絡は、電波が悪く届いていなかったという。
4時になっても、連絡がないことで、
26日の22時から所在不明ということで、各関係者にお願いをしたらしい。
こちらは、1時に連絡をしているし、
昼の段階から夜は連絡出来ない可能性があると伝えていた、
と思っているから、何故、捜索が出たのか理解できなかった。
今後、与那国島から石垣島へ渡るには、伴走船をつけて航行してください、
という海上保安庁からの行政指導があったという。

己を知る努力をして、自分の力で海を判断し、
航行することに大きな意味があるのであって、
伴走船がつくのは、となりに動く陸と救急車が併走しているのと同じではないか。

自力で緊急事態を打開する力や、判断力、海を越える精神力は、
伴走船がついていては、必要ないと言ってよい。
いつも紐がついていて、ほぼ安全が確保されているから、
肉体的な強さと、操船の技術が、問われるだけである。
それなら、プールを100時間でも泳ぐのと変わりない。
そういう挑戦があっても良いが海で本当に必要な力はどこで養われるのか、とも思う。
海を自由に航海していた海の人は、伴走船をつけていただろうか。

「そういう遠征なら始めからやらない。一度、撤退する」
事務局に伝える。

ともかく、海上保安庁、各関係者にお詫びと、
何故、こういう事態になったのか、説明する必要があると思った。
このままでは、予定通り単独横断を進められない。
まずは、明後日のフェリーに乗って帰ろう。

港にあがってからは、嬉しい気持ちより、残念な気持ちが強かった。
荷物の整理も出来ずにいる。
風は、相変わらずやや強い南風が吹いていた。
海面には、少し白波がたっている。
日差しは、厳しい。
日陰にいないと、汗が滝のように出てくる。
やっぱり海に居た方が、涼しくていいな。

最後に

遠征が終り、今、こうして自分なりに振り返ってみる。
今回の遠征は、どうだったのか?

台湾遠征2006は成功だったと思う。
カヤックを漕ぐ者も、事務局の対応も最善だった。
皆が、準備の段階からやるべき事をした。
そして今回、最大の難所、南風6~9m時速8kmで流れる黒潮を、
全力で漕ぎ抜いて、生きて帰ってきたのだ。
カヤックの可能性やカヤックの海世界は、また広がった。

今後、改善すべき点は、2つ。
手放しでも連絡、もしくは漕ぎ手の現在位置を確認できる道具を探すこと。
カヤックという乗り物の理解、学習を、漕ぐ側も連絡を受ける側もすること。

今回の定期連絡の不通、捜索の要請は、通信機器の不調が一番の原因だった。
何故、不調を予測出来なかったのか?

漕ぎ手側では、1時の時点で、通話している。
話しているが、受け手は電波が悪く聞こえなかった。
これは、予測不可能であったと言ってよい。
陸上の携帯電話でもあることだ。
事務局側は、1時の連絡が聞こえず、4時の連絡がない。
この時点での捜索要請は、正しかったと思う。

夜の連絡が出来なかったのは、カヤックにはありうることだ。
パドルが推進力を生む乗り物であり、転覆を防ぐ道具でもある。
手を離せば、カヤックのあらゆる機能を止めることになる。
荒れた海の中では、尚更、危険だ。
時化の海で、大きい船が横波を受けて沈没する可能性がある中で、
エンジンから電気から全て止まるのと同じ状況だと思って欲しい。

昼の定期連絡で、夜の連絡は出来ない可能性があると伝えている。
これがどういうことなのか。
漕ぎ手と関係者が、共通の判断を出来なかった事は、
事前の擦り合わせ不足と、カヤックという乗り物の理解不足だったと思う。

挑戦や新しい可能性への一歩を踏み入れることの意味は何かと、
考えさせられる遠征だった。
挑戦は、安全を疎かにするものではなく
、限界を伸ばし、さらなる安全の理解に繋がるものだろう。
挑戦を止めてはいけないと思う。

日本では、カヤックという乗り物のチャレンジが少ない。
まだ、遠征をする側、サポートする側の経験も少ない。
カヤックの持っている道具としての能力、
そして人が準備すべきことをもっと、理解する必要がある。
理解なくして、カヤックに関わる問題点や事故を検証出来るだろうか。
そして失敗を繰り返しながらも、より良いものにしていく事が、大切だと思う。
辞めるのは簡単だ。
水辺にロープを張って、その中だけで遊べば良い。

今回の遠征は、カヤックの安全性と可能性を証明した遠征だったと思うが、
連絡体制の不備、遠征失敗といった、逆の見解もあった。
残念な事だが、人の評価や理解は、いろいろだ。
それは真摯に受けとめて、また次につなげていこうと思う。

安全対策などに関しては、昨年の沖縄遠征の報告を読んで欲しい。
海上保安庁の方々には、今年も様々なアドバイスを頂いている。
与那国周辺の海での捜索方法についても教えて頂いた。
カヤックの遠征だけでなく、カヤックツアーにしても
レジャーの一つとして、保安庁と連携する事は必要だ。
カヤックという道具を理解しもらう説明も必要だと思った。
(昨年の報告書参照) 

最後に、今回も多くの皆様にお世話になりました。
この場を借りて、お礼申し上げます。
単独の挑戦の舞台裏では、沢山の人が動いています。
この協力なしでは、成功はおろか、スタートラインに立つことも出来ませんでした。
心から感謝しております。ありがとうございました。

7月15日
遠征遂行者 八幡暁